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 戦後沖縄、最高のヒーロー 激動の時代に築いた島の誇り

アフロヘアと口ひげに「ちょっちゅね」など、とぼけたキャラクターですっかりバラエティー番組の人気者として定着した具志堅用高。かつてボクシングWBAライトフライ級王座の13連続防衛や世界戦6連続KOなどの記録を打ち立て、今の姿からは想像できないほど最強のボクサーだった。そして、本土復帰間もない当時の沖縄で間違いなく最高の英雄だった。プロ入りわずか9戦目でチャンピオンベルト石垣島に生まれ、高校は八重山商工へ進む予定だったが「受験のとき答案用紙に名前を書き忘れた」と言い、

那覇にある興南高校へ進んだ。そこで出合ったのがボクシングだった。興南入学の翌年、1972年5月15日に沖縄は米国統治下から日本に復帰した。高校3年時に全国高校総体で優勝、卒業後に上京してプロ入りした。74年5月のデビュー戦から勝ち星を重ね、76年10月10日、チャンピオンのファン・グスマン(ドミニカ)を破ってライトフライ級(当時はジュニアフライ級)王座を獲得した。プロ入りわずか3年、9戦目の快挙は人々を驚かせた。当の本人は会見で「非常にうれしい。早く沖縄に帰りたい」とコメント。具志堅は後に、グスマン戦を「タイトルマッチの中で一番いい内容だった」と振り返り、初の王座獲得に「沖縄出身でもやれるんだと勇気をもらった」と語っている。
「120パーセント沖縄のため」闘った上京当時はまだ沖縄出身者への偏見があった時代。具志堅も沖縄出身であることを理由にアパートを借りられなかった経験がある。石垣島を飛び出したヒーローがリングを縦横無尽に動き回る姿に、沖縄の人々は熱狂した。「アメリカ世(ゆー)からヤマト世(ゆー)」へ。押し寄せる時代の波の中、具志堅の闘う姿に自らの思いを投影させる沖縄県民は多かった。具志堅自身も無意識に沖縄を背負った。「頭の中にはいつも、ヤマトゥ(本土)に負けてはならんというのがあった。チャンピオンになればつらかったことが全て喜びに変わる」と13度の防衛を成し遂げた原動力を語り、「120パーセント沖縄のため」との言葉を残した。インタビューで堂々と沖縄なまりやうちなーぐち(沖縄方言)を話す具志堅の姿に勇気づけられる人もいた。沖縄初の芥川賞作家、大城立裕は「(1960年代前半は」沖縄は何によらず負け犬だった。スポーツでも参加することだけに意義がある時代だった」と言う。そして、68年の甲子園での興南高校4強入りや70年代の具志堅の活躍を挙げ、「スポーツで自信を持ったことに付随し、それを起点として沖縄の文化を恥ずかしいと思わない自信が生まれた時代」と評した。